---連載小説「湖底のかがり火」第5回---
 
「そんなの無理! 犯罪でしょ!」
 輝海は桐山に激しく抗議した。
「判っている。法律に触れることも充分に理解している。だがこの
方法しかないんだ」
 桐山は午後6時を過ぎているのにも関わらず、いつものハーヴテ
ィーを啜っていた。通常なら5時を過ぎると、「なにか作ってくれ
ないか?」と輝海に酒を作らせる。
 桐山の好みはアイリッシュ・ウイスキーのソーダ割りで、それを
2杯ほど飲んだ後、ワインに切り替える。が、 もっとも桐山がワ
インを飲み始める頃には、輝海はすでに退社しており、月に2度ほ
どの割合で付き合う夕食の時には、そのまま一緒にオフィスでアペ
リティフを何杯か飲み、食事に出かけることになる。
 だが、今しがた桐山が持ちかけたプランによるところが多いのだ
ろうが、今夜は珍しく素面でいた。
「確かに無断で町役場に侵入するのは、正気の沙汰じゃない。しか
も誰かに見つかれば、住居侵入とかなんとかで確実に逮捕されるだ
ろう・・・だけどどうしても宮下さんが以前使っていたパソコンを
チェックしたいんだ」
 さきほど、30分ほど前に桐山はオフィスに戻って来た。宮下幸
恵と電話で話したらしく、それによるといつも宮下が持ち歩いてい
たCD‐Rが1枚見当たらないと言う。
 宮下は幸恵になんでも包み隠さずに話していたそうで、今現在自
分が関わっている仕事、それについての悩みや意見を、積極的に妻
である幸恵に話していたと云う。
 幸恵は宮下の私物が役場から戻って来た後、桐山の指示通り、そ
れを細かくチェックした。そこで宮下がいつも持っていた2枚のCD
‐Rの内1枚が無くなっていることに気付いたのだ。
 宮下は自宅のパソコンで、職場のパソコンのバックアップを取っ
ており、その内容を常時抜け落ちないように2枚のCD‐Rに収めて
いたと云う。1枚は職場のパソコンから自宅のパソコンへ、そして
もう1枚は自宅で作成したものを職場のパソコンへ。ところがその
自宅で作成した内容を焼いていたものがなくなっていた。
「だから、役場にあるパソコンを開いて、宮下さんが作成したファ
イルをすべてコピーし、それを後から自宅のパソコンの内容と比較
すれば、きっと無くなったCD‐Rの内容が判るはずなんだ」
 桐山は輝海に力強く訴えかけた。
「確かにボスの言うことは判るけど、その内容が今回の事件とすぐ
に結びつく可能性があるとは現段階で言えないし、そのために役場
に忍び込むのはあまりにもリスキーでしょう」
 輝海はなおも食い下がる。
「もちろんテルの言うとおりだ。が、俺たちには今のところなんの
手がかりもない。どんな小さな糸口でも、それがなにかの意味を示
していれば、それを探るしかない。それに誰かが意図的に盗んだの
なら、早晩、パソコンの内容も消されてしまう。だからやるのなら
一刻も早いほうがいい」
「でもそれにしても、後任の人がもうすでにパソコンを初期化して
しまっていたり、内容を変えていたらもう手遅れでしょ・・・」と
輝海。
 それを聞いて、桐山はにやりとした。
「OK! 宮下さんの後任は誰だ?」
 輝海はその顔を思い出して、嫌な気分になった。
「そう! 正解! 君の恋人、ミスタ・口臭だ」
「やめてくださいよ!」
 桐山は歯並びの良い口を大きく広げて笑った。
「じゃあ次の問題! ミスタ・口臭はパソコンが得意だと思うか?」
「多分、キーボードも叩けないと思うけど・・・」
「それも正解だ。ヤツが両手を使ってキーボードを叩けるようにな
るまでに、あと最低1年はかかる、と云う方に100万円賭けてもい
い。その証拠に宮下さんが使っていたパソコンのパスワードを、誰
も幸恵さんに訊ねてこないと言っていた。まあ、もっとも、自分た
ちの尻尾をわざわざ踏まれるような間抜けなことはしないだろうけ
ど・・・やつら・・・誰だか判らないけど、役場にパソコンがある
限りは安全だと思っているわけだし・・・だから頼む! 協力して
くれテル・・・」
 強引で自分勝手、まるで世界が自分を中心に回っていると思って
いるみたい・・・でもこうして頼まれると、不思議と断ることが出
来ないんだよなあ・・・輝海は諦めた。
「ふー・・・判った。で、なにをすればいい?」
「そうこなくっちゃ! すぐに終わるから、その後、美味しいもの
でも食べに行こう! な! オレの計画はこうだ・・・」
 
 桐山が役場の3階にある、以前、宮下が使用していたデスクに辿
り付いて、すでに1時間が経過していた。
 桐山の予想通り、北麓町の役場にはセキュリティ・システムは設
置しておらず、いつも空いている2階の廊下の窓も、こんなに寒い
季節になったにも関わらず、そのまま開け放たれていた。
 フリークライミングを趣味としているだけあって、桐山の身のこ
なしは軽やかで、その空いている窓の横に植えられた大きなケヤキ
に登ったあと、難なく空いている窓に飛び移った。その間、物音は
まったく立てないで、窓枠を掴んだ瞬間、僅かに窓がきしむ音が聞
こえたくらいだった。
 北麓町の役場は図書館に隣接しており、図書館側に大きな駐車場
がある。その反対側、つまり役場側の裏は小さな用水路に挟まれる
ように、細い道路があり、近隣に住む人たちだけの車の往来があっ
た。
「いいか、オレがパソコンをチェックしている間に、もしもその道
を誰かが歩いてきたり、あるいは車で通ると、人の居ない役場の窓
がほんのりとパソコンの画面で明るくなっていることに気付かれる
かもしれない。そうすると厄介だから、誰かがそこを通過しそうな
時は報せてくれ」
 輝海は図書館側に通じる道と、用水路に挟まれた道の、双方が見
渡せるところに車を停め、片手に携帯電話を握ったまま、時間の経
過する長さに苛立っていた。
「いいか、誰かが近づいたらオレの携帯に電話してくれ。だがオレ
は受けない。着信音を消してバイブレートモードに切り替えておく。
そしてその瞬間、パソコンになにかを被せるよ」
 用意周到な桐山はそう言うと、現像室から真っ黒なケント紙を取
り出し、それを適度な大きさにカットして、ジャケットのポケット
に押し込んだ。
 輝海が見張りを開始して、今までに3度車が通過して、1度犬を
連れた人が通り過ぎた。だが今のところは誰にも気付かれていない
ようである。
 
 宮下のパソコンは、幸恵に教えられたパスワードで起動した。や
はりまだこのパソコンには誰も触れていないようである。ハードデ
ィスクの中には「マイドキュメント」、「ブリーフケース」の他に
宮下が作成したファイルが収められていそうな「MIYASHITA」、と
云うフォルダがあり、それぞれを開いてみた。中のフォルダには、
項目別にフォルダを分けてファイルが整理され収められており、次
々とCD‐Rに焼きこんで行くのは容易だった。図形や画像ファイル
はメモリー容量が大きいので、それらのコピーには多少時間を要し
たが、フロッピーディスクでのコピーを思えば随分便利になったも
のだ。
 念の為に、検索機能で「MIYASHITA」「SACHIE」「MASAKATSU」
「FUJISAN」など、思いつく限りの文字列を入力し、隠されている
フォルダやファイルを探ってみたが、特に新しいものを見つけ出す
ことはできなかった。
 輝海との打ち合わせどおり、さきほどから4回、胸ポケットに入
れてある携帯電話が振動を伝え、すぐに切れた。その都度、桐山は
ケント紙をパソコン画面にぴったりと貼り付け、光が外部に漏れな
いように工夫した。それから数分は緊張の時間を過ごしたが、今の
ところは大丈夫なようである。
 あと数分で必要と思われるファイルのコピーを終えることが出来
そうだった。持参したCD-Rの数も、そろそろ底を突きかけていたの
で、桐山もそこで安堵の吐息を漏らした。
 
 輝海が車の中から見ていると、さきほどの窓から桐山が顔を出し
た。輝海は周りを見回し、大丈夫だ、という合図に一度だけ車のラ
イトをパッシングさせた。
 それを確認してから、桐山は窓からケヤキに飛び移り、するする
と降りてきて、車に走り寄ってきた。
「OK! お待たせ! 行こう!」
 輝海はギアを入れて、車を走らせながら聞いた。
「大丈夫? すべて上手くいった?」
 桐山は暗がりの中でも判るほど、白い歯を見せて頷いた。
「さあ…テル! なにか美味いものを食いに行こう! 今夜はご馳
走するぞ!」
 輝海は一度、図書館側の駐車場に廻り、そのまま国道に繋がる道
に出て、スピードを上げて車を走らせた。
 その時、駐車場に停められた一台の黒いセダンの中で、輝海たち
の様子をずっと覗っていた男の存在には、二人ともまったく気が付
かなかった。

 
<- つづく ->
 
BACK