---連載小説「湖底のかがり火」第6回---
 
「パペーテ」の店内は8割ほど客で埋まっており、輝海と桐山はい
つもの定位置とも言える、奥の窓際の席に案内された。
「いらっしゃい! めずらしく桐山さんはまだ素面ですね・・・な
にをお飲みになりますか?」
「パペーテ」のオーナーシェフである小林光一の妻、伊津子がオー
ダーを取りに来た。
 この「パペーテ」は、KKアドファームでホームページを制作し
ているイタリアン・レストランで、そういう意味においてはKKア
ドファームの顧客と言えるのだが、桐山も輝海も、毎週のようにこ
のレストランを利用しており、店主の小林夫妻とは家族ぐるみの付
き合いをしていた。それに加えて、小林夫妻には小学6年生と3年
生の二人の男の子がいて、二人とも輝海がコーチを務めるジュニア
・ヨット・スクールの生徒でもあった。
「私はカンパリをお願いします」と言って、輝海がカンパリソーダ
をオーダーすると、「オレもとりあえずそれを貰うよ・・・それと
ハウスの白をボトルで・・・」と、桐山はワインをオーダーした。
 夕食中の桐山は、飲み物が切れると落ち着かないらしく、常に次
に自分が飲むモノを早めにオーダーする。とくに今夜のように、こ
の時間になっても一滴もアルコールが入っていない夜には、最初か
らピッチがあがる。
 観葉植物の陰に置かれたスピーカーから、グレンミラーの「ムー
ライト・セレナーデ」がかすかに漏れており、よく聴かないとそれ
がグレンミラーであることは分らない。光一はSP盤で録音されたビ
ッグバンドのコレクターで、それを録音して店内で流している。
 少しノイズ混じりの曲調と、店内のアンティークを生かしたイン
テリアが程よくマッチし、二人ともここで出される料理と共に、こ
の店が気に入っている所以である。
「ハイ! とりあえず、カンパリ2杯と、ブルスケッタ。それとワ
インに今日のアンティパスト・ミスト」
 伊津子が手際良く料理とワインをテーブルに並べる。なにもオー
ダーをしなくても、手際よく前菜と酒が登場するのも、この店のい
いところだと、いつも桐山が言っている。
「それと桐山さんにはクロスティーニを作っちゃっているけど、い
いよね?」
「さすがにイッちゃん! よく気が利く! テルもこれくらいよく
気が付くと、いい奥さんになれるけどな」
「それはテルちゃんに失礼よ! 桐山さん・・・」と言って、伊津
子は桐山のグラスに白ワインを注ぐ。そして続けた。
「テルちゃんだって本当によく気が利くし、ウチに遊びに来てくれ
る時なんか、本当に私、助かるのよ・・・それに我が家のチビッコ
・ギャングも手下にしているし・・・ねえ、テルちゃん」
 そう言って、伊津子は輝海のグラスにもワインを充たした。
 輝海はそれには答えずに小さく微笑んだ。
「今日のメインのお勧めはオーソブーコと手長海老のクリームソー
ス煮、それと鴨のロースト。パスタはいつもの通り。なにかあれば
いつでも呼んで」
 そう言い残すと、伊津子は忙しそうにキッチンに消えた。
「伊津子さんって本当にいつ見ても元気ですよね。夜遅くまでお店
を切り盛りして、それでもいつも朝早くから光輝と晴樹の二人の息
子を連れて犬の散歩に行くんですよ・・・本当感心しちゃう・・・」
「それによく気が付くし、とってもチャーミングだ・・・テルもイ
ッちゃんを見習うと、早くいい旦那が見つかるよ」
 桐山はすでに白ワインを飲んでおり、手づかみでアンティパスト
の皿から生ハムをつまみ上げて口に運んだ。
「私はまだまだ結婚する気なんてありません!」
 輝海もブルスケッタに噛り付きながら抗議する。
「そんなこと言っていても、20代なんてあっと云う間に過ぎるぞ!
それにほら、よく言うじゃないか、クリスマスケーキと同じだって
・・・25を過ぎると、なんの価値もなくなるって・・・」
「そんなのは昔の話で、今は30歳を過ぎても、幸せな結婚をする人
がいっぱいいるし、その方が、男を見る目も肥えるでしょ・・・」
と輝海。
「まあな・・・あまり早く結婚しても、失敗したらなんにもならん
しな・・・」
そう言って、桐山はワインを飲み干し、テーブルに目を伏せた。
 桐山を紹介してくれた高校の担任教師から、桐山が東京を離れた
理由を聞くな、と釘を刺されていた。だが、なんとなく今夜なら、
輝海はそれを聞いてもいいような気がした。
 二人で住居侵入という違法行為を働いた、その共犯者意識みたい
なものを輝海は感じていたのだ。
「ボス・・・どうして東京からここにやって来たんですか?」
 桐山はそれを聞いて、一瞬、輝海の目を覗きこみ、それから自分
のグラスにワインを充たした。
「いや・・・別に話したくなければいいんですけど・・・」
 桐山はワインを一口飲んで、笑顔になって言った。
「渡辺・・・つまりオマエの高校時代の担任が、その理由を聞くな、
と釘を刺したろ・・・」
「ええ・・・ハイ・・・」と輝海は答え、やはりこの質問はまずか
ったかな、と思い始めた。
 ところが桐山はいとも簡単に「浮気だよ」と言った。
 そう言ってまたワインを飲み干し、新たにグラスを充たした。す
でにボトルの中身は半分ほどになっており、輝海は新たにオーダー
しようかと迷った。
「ボスの浮気がバレたのですか?」
 それを聞くと桐山は大きく笑って首を振った。
「いや、逆だよ。女房が浮気をしたんだ・・・それも同じ会社の仲
間とね・・・」
 輝海はそれを聞いて、どう答えていいか分らなかった。
「まあ・・・もう昔のことだから、あまり気にしなくてもいいんだ
が・・・」
 桐山は輝海の内心を見透かしたように言った。
「その前からうまく行っていなかったんだ・・・彼女が浮気をする
随分と前からね・・・オレは撮影で留守にしがちだったし、彼女の
方にも、このまま終わりたくない、と云う焦りみたいなものがあっ
たんじゃないのかな・・・」
 桐山は輝海に話す、と云うより、独り言のように静かに過去を語
り始めた。
「彼女はモデルだったんだ。オレがカメラマンで彼女がモデル、よ
くあるパターンさ。で、オレは結婚したら、彼女に家庭に収まって
欲しかった。ところが彼女は自分の美しさをもっと認めて欲しかっ
た。オレ以外の人にもね」
「オレは当時、雑誌の編集者やコピーライター、それにグラフィッ
ク・デザイナーなど、業界の同業者でグループを作って、みんなで
会社を興して、そこに所属して仕事をしていた。で、コピーを書い
ていた仲間が社長を務めた。そいつはコピーを書くより商売が巧か
った。もちろん商売が巧いから社長に収まったわけだが、そいつが
彼女はもっと世の中に出るべきだ、と良き相談相手になった。商売
が巧い上に口も巧い。そしてオレは留守がち・・・単純な方程式み
たいに簡単さ」
「で、浮気が発覚して、オレがその社長をぶちのめして、仕事と女
房の二つを同時に失った、ってことだよ」
「まあ・・・これは結果論だが、どっちみち、オレは東京を離れよ
うと思っていた。何度も撮影でここを訪れ、いつかは住みたいと考
えていた。だからもしも彼女が浮気をしなくても、きっと彼女はこ
こにはついて来なかったと思う。彼女は東京生まれの東京育ちで、
都会の暮らしがすごく好きだったし、ここの暮らしには馴染めなっ
たと思う」
「奥さんと・・・そのお友達はそのあと結婚したの?」
「いや・・・一時、一緒に暮らしていたようだが、すぐに別れたみ
たいだ。結局のところ、彼女は誰も本気で愛せないと思う。自分が
一番なんだよ。誰でもいいから自分を認めてくれる人がいればいい
んだ。それも自分の内面じゃなくて、そのルックスだけをね・・・」
「よく女性モデルにありがちなタイプだよ・・・幼いときから美貌
によって、多くの人から認められ、それによって多くのアドヴァン
テージを受けてきたから、それが認められないことには耐えられな
いし、恐怖すら感じてしまう・・・内面的な美しさを磨くなら充分
に時間はあるが、外見だけじゃあ、残された時間はそれほど多くは
ないからな」
 白ワインのボトルはすでに空になり、桐山のグラスにも残ってい
なかった。
 輝海は話を聞いている間、ほとんど飲み物に口をつけていないこ
とに気付いて、ワインを一口飲んだが、それはすでに生ぬるくなっ
ており、また静かにグラスをテーブルに戻した。
 そこへ伊津子がやってきた。
「あれ? 今夜は二人ともオナカが空いていないの? もうすっか
りお皿がきれいになっていると思ったのに、こんなに料理が残って
いるじゃない・・・」
「いや・・・ちょっと仕事の打ち合わせをしていたんだ。もう腹ぺ
こだよ! オレは鴨を貰おうかな・・・テルは?」
「えっ?・・・私は・・・パスタがいいな・・・そうだニョッキを
貰おう!」
「OK! 鴨のローストとニョッキね! ワインは? 赤を持ってく
る?」
「そうだね・・・赤を貰おう」と桐山。
 輝海も頷く。
 伊津子が去って、輝海が口を開いた。
「ボス・・・答え辛いことに答えてくれて有難う・・・」
「いやあ・・・もう昔のことだからまったく気にしていないよ」
 そう言って、桐山の顔にいつもの笑顔が広がった。
「もう結婚はしないの?」と輝海。
「もう懲り懲りだね! 人は間違った理由で結婚して、正しい理由
で離婚する! 誰が言ったか知らないけれど、まったくその通りだ
よ。感情で結婚して、理性で離婚をするんだ。オレはもう感情に押
し流される歳でもないよ」
「ふーん・・・そんなもんかなあ・・・」
「どうしたんだよテル! さっきまでは結婚なんてまだまだ先だ!
なんて言っていて、オレの話を聞いて、突然、真剣に考え始めたの
か?」
「そんなことはないけど・・・」
 輝海は自分の父と母のことを思った。
 あの二人はとても仲が良かった・・・結婚生活とか、そのような
話をする前に、二人は手の届かない遠い世界に行ってしまった。
 そう思うと、急に寂しさがこみ上げてきた。
「どうした? テル・・・大丈夫か?
 そんな輝海の心中を察したのか、桐山が心配そうに訊ねた。
「ううん・・・大丈夫。空きっ腹に飲んだから、少し酔ったみたい
・・・」
「そうだな・・・オレも急に腹が減ってきたよ。今日はひと仕事し
たしな!」
 そう言って桐山はウインクをした。
 伊津子が新しい料理とワインを持ってテーブルに置いて言った。
「テルちゃん、また今週末、光輝と晴樹、ヨットお願いね。随分と
寒くなってきたから、ウエットを持たせるから・・・ちゃんと着せ
てね。特に光輝はウエットを嫌がるから・・・」
「任せて・・・あの二人には厳しくするから・・・」と言って輝海
は笑った。
「本当に・・・お願いしますね」と言って、伊津子はテーブルを離
れた。
 それから話題はヨットのことになり、話しながらも二人とも料理
を食べることに熱中した。
 だが桐山は足元に置いたバッグの中のCD-Rの内容が、いったい
自分にどんなことを教えてくれるのか? そのことが頭から拭えな
かった。

 
<- つづく ->
 
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