---連載小説「湖底のかがり火」第8回---
 
 そのメイルには当然のことながら差出人が記されておらず、桐山
はそのメイルの「プロパティ」でメイルのヘッダを確認してみた。
 しかし桐山の予想通り、その「From」には、メイルの差出人の名
前は記されていなかった。
 どこから来たメイルなのか調べ出そうと、「Received」行を探っ
てみたが、どの欄もまったく理解できないものだった。
 桐山もこの仕事が長いので、パソコンについての知識もかなり深
い方だが、これ以上はお手上げ状態で、輝海に「柳沼さんのオフィ
スに連絡をしてくれ・・・」と告げた。
 柳沼と云うのは「KKアドファーム」の仕事を請け負っている外
注Webデザイナーで、「KKアドファーム」におけるインターネ
ット・コンサルタントの立場にある人物と言えた。
 桐山が電話で要点を伝えると、柳沼はすぐに行くと言って電話を
切った。
 桐山と輝海が脅迫メイルについてあれこれ推理していると、そこ
へ柳沼がやってきた。
 いつものように目深にニットキャップを被り、その帽子の下で、
大きな目をぎょろりとさせた。細面のその顔に顎鬚を蓄えており、
輝海はその顔を見るといつも山羊を想像してしまう。これは柳沼の
苗字からの連想でもあるのだが、そのことを桐山に伝えると、桐山
も「きっと学生時代は山羊に関するニックネームを付けられていた
んだろうな・・・」と苦笑していたので、まんざら輝海の印象は的
を外していないようである。
 柳沼はオフィスに踏み入れるなり、挨拶もそこそこに輝海のパソ
コンの前に立った。
「ちょっとそのメイルを見せてもらえますか?」
 柳沼は低い声でそう呟くと、輝海のパソコンを操作し始めた。
 先ほどの桐山の操作と同様に、その脅迫メイルのヘッダを確認し、
「ウーン・・・」と小さく唸った。そして今度はネットに接続し、
あるページを呼び出した。
「このサイトはですね・・・ドメインとIPアドレスの対照確認がで
きるところで、このメイルを発信したサーバのドメインがどこの所
有か調べることができるんですよ」
 柳沼は独り言のように呟きながら、何度かキーボードを叩いた。
 その指先を眺めていた輝海は、柳沼の指の細さにハッとした。ま
るで女性のような繊細な指先をしていたからだ。
 輝海の手は長年のセーリングの賜物か、シートによる摩擦で掌が
厚くなっていたし、(きちんとセーリング・グローヴを着用してい
るのだが・・・)指先は細かい傷だらけであった。もちろん爪は短
くカットしてあるし、マニキュアなんて付けたこともなかった。
「なにか飲み物でも入れましょうか?」と輝海が桐山に尋ねると、
桐山は「お茶を」と言い、柳沼も同意の徴に頷いた。
 どうやら二人とも今夜はお酒を飲まない覚悟らしい。
 お茶を淹れてデスクに戻ってくると、相変わらず柳沼はパソコン
に向かって熱心にキーボードを叩き、桐山がそれを背後から見守っ
ていた。
 それから暫くして、柳沼は「ちょっと電話を借ります」と言って、
パソコンに向かったまま、何度かどこかへ連絡をとっていたが、CD
が4枚目のRy Cooderの「Paris,texas」にさしかかった時、やにわ
に振り向いて言った。
「これは匿名メイルを出すことができるリメイラーやニムサーバー
と呼ばれるサービスを運用しているサーバからではなさそうですね
・・・隣の丸尾村にある産業機械メーカーのサーバを不正中継し出
されたメイルで、そのサーバを管理しているシスアド(システム管
理者)が知り合いなので、連絡をとってみたんですが・・・」
 柳沼はニットキャップを被り直しながら、少し困った顔で溜息を
ついた。
「実はそのシスアドにサーバのログを調べてもらったら、このメイ
ルが外からの操作で発信されていることが判ったんです。それでそ
の外部操作のホストが、北富士川市の地元プロバイダだったんです
よ・・・」
そう言って柳沼はもう一度溜息をつき、桐山と輝海の顔を交互に見
上げた。
「どうやら、とても厄介なハチの巣を突っついてしまったみたいで
すね・・・」
3人の間に気まずい沈黙が訪れた。
 いつもなら哀しいほどの美しい感性を揺さぶられるRy Cooderの
ギターの音色が、多少、不吉さの予感を持って、重く圧し掛かって
感じられた。
 輝海が恐る恐る尋ねた。
「どうしてそんなに厄介な状況なんですか?」
 桐山が答えようとすると、柳沼がそれを遮って厳しい口調で言っ
た。
「力を持った大きな組織が動いている・・・これは個人の仕業では
ないとボクは推察するわけですが、その組織は関係各方面にかなり
大きな影響力を持っている、と考えざるを得ないでしょうね」
 柳沼はそう言うと、膝をぴたりと寄せて座り直し、その膝に手を
置いて続けた。
「つまりこういうことです。他者のサーバを利用し不正中継でメイ
ルを発信できる人間は、ある程度、高度な情報処理のスキルが必要
で、この一件が北富士川市の地元プロバイダからの不正アクセスだ
とすると、そのプロバイダのネットワークの管理技術者あたりが一
番怪しい…また、そのプロバイダが北富士川市から6割以上出資し
て設立された会社であることを考慮すると、その技術者に指示でき
るのは…と考えると、どうしてもそのような結論に達してしまう。
先日来、今回の事件のあらましを桐山さんからかいつまんで聞いて
いるけど、そういうことを総合的に考えると、これは間違いなく大
きな組織が動いていると断言できますよ」
 それを聞いた瞬間、桐山はあることを2つ同時に思いつき、その
背中に僅かながら戦慄がよぎる思いをした。
 その一つは宮下の首にかかっていたとされるロープだ。あのロー
プはどう見ても不自然な結び目が施されていた。プロの鑑識ならそ
のことにすぐに気付くはずだ。ところがあれ以来、警察は事件につ
いてなにも言っていない。
 そしてもう一つ・・・
 それは今日の午後、輝海と二人で宮下のパソコンの内容をチェッ
クしていた時にほんの一瞬、心のどこかで引っ掛かっていたことだ。
 今、柳沼は「大きな組織」と言った。
 それを聞いて俄かに思いついたのだが、地元で観光業を営む事業
主のリストの中に、この北麓湖町出身の県会議員の名前があったの
だ。それもその議員は、富士山、並びに北麓湖を中心に、かなり手
広く観光事業を展開していた。
「ボス・・・大丈夫ですか・・・」
 輝海の声でハッと我に返った。
「あー・・・大丈夫だ・・・えーっと・・・柳沼さん・・・その大
きな組織と云うのは・・・」
 そこまで言って桐山は唾をごくりと飲んだ。口に出して言えばす
べてが現実となって突きつけられることになる。そのことに桐山は
多少、恐怖を覚えたのだ。
「その大きな組織と云うのは、警察に対しても影響力があると考え
ることができるかな?」
柳沼はそれを聞くと、シニカルな笑顔を浮かべて応えた。
「ウーン・・・あるともないとも、ボクには言えませんね。事件の
側面を考えれば可能性は考えることはできる。ただ・・・ボクが今、
お二人に明確にアドヴァイスできることがあるとしたら、あの忌ま
わしいメイルにあるとおり、これ以上は事件について探り廻ること
は止めたほうが無難ですね」
 柳沼はそう言うと、大きな目をさらに見開いて続けた。
「たしかに桐山さんの気持ちは理解できる。ボクも仕事上の関係で
宮下さんとも交流があったし、彼の人柄には暖かいものを感じてい
ました。だけど・・・今までの経過を見る限り、これはかなりリス
キーな展開になりそうだ・・・ボクなら・・・これ以上の深追いは
控えるでしょうね・・・」
 柳沼はそう言うと立ち上がって桐山の肩にそっと手を置いた。そ
れから輝海に無言で頷き、オフィスを後にした。
 しばらくオフィスに沈黙が流れた。
 沈黙を破ったのは輝海だった。
「ボス・・・もうすでに10時を回っているので、そろそろ引き上げ
ませんか?」
 輝海にそう言われて時計を見るとすでに10時10分を指していた。
「あー・・・悪かったな・・・今夜は夕食もまともに取っていない
な・・・」
「大丈夫です・・・それになんだか食欲もないし・・・」
 桐山も今夜はまったく食欲がなかった。
「輝海・・・あまり心配は掛けたくないんだが、今夜は家まで送っ
て行くよ」
 輝海はそれを聞いて、一瞬、眉をひそめたが「それじゃあ、お言
葉に甘えて」と言って了承した。
 帰りの車中、二人ともほとんど口を開かなかった。
 輝海の家の前で車を止めると、彼女は言った。
「それじゃあオヤスミなさい・・・ボスも帰り道、気をつけてくだ
さいね。それから・・・こんなこと言ってもなにもならないけど、
今回のこと・・・私は後悔していない・・・宮下さんのことは私も
好きだったし、ボスは友人として当然のことをしていると思う」
 それを聞いて、桐山は輝海に優しく微笑みかけようとした。が、
その瞬間、輝海の背後に立つ人影に気が付いた。
柳沼のアドヴァイスは少し手遅れのようだった。

 
<- つづく ->
 
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