---短編小説「鳥たちへのレクイエム」---
 
 彼の飛び方はとても優雅だった。
 カラスや鳩などは、無駄に翼を羽ばたかせるが、彼は風を読み、
その風を巧みに捕まえ、たった一度の羽ばたきで限りない天空の高
みに舞い上がることができた。
 すべてを射抜くような鋭い眼光を見開き、信じられないような高
さから湖底の魚の姿を捉え、まるで雹が落下するような勢いで降下
し、あっという間に獲物を捕獲するのだった。
 彼の好物の魚は虹鱒で、愚かな釣り人たちが疑似餌を投げ入れ醜
いバスと格闘するのを尻目に、さっと湖面を掠めて虹鱒をさらい、
森の中へと消えて行く。
 そして湖を見下ろす山の中腹の、大きなケヤキと、その周りを取
り囲むように立つ胡桃の木の根元にその獲物を持ち帰ると、まだ息
の残っている虹鱒の頭部に最後の一撃を加え、強者の犠牲になった
者の魂を開放してやるのだった。その刹那、彼の頭に哀しみが過ぎ
ったが、自然界のすべての厳しい掟がその哀しみを冷たく封じ込め
た。
 彼は虹鱒の内臓をえぐり出し、それを残さず綺麗に平らげた後、
白く締まった身をほじくり出し、それもまた残さずに食べた
 すでに胡桃の木の根元には、頭部と骨だけになった虹鱒が横たわ
り、その死臭を嗅ぎ付けたハエやアリたちが、ご馳走のお裾分けを
狙って彼の背後に迫っていた。
 彼は多数のその卑しい視線を背中で感じつつも、いつものように
ためらうことなく虹鱒の目を突付き、両目をゆっくりと味わった後、
周りを睥睨し、今度は慌しく翼を羽ばたかせ、そこを飛び立った。
 山の頂上と同じくらいの高さまで舞い上がると、その山の南に霞
む、頂に雪を載せた大きな山が目に入った。先ほどまでいた場所に
視線を戻すと、虹鱒の死骸には多くの虫がたかり、その姿は見えな
くなっていた。きっと虹鱒は己の躯に多くの虫たちがたかっている
ことには気付かずに、永遠の旅に出ていることだろう。
 彼はもう一度、頂きに雪を載せた大きな山の方に目を転じた。
 この山は、この国でもっとも高い山で、すべての動物から尊敬と
畏怖の念を持って慕われていた。
 心ない人間どもが、その山を様々なゴミで汚し、醜悪な建造物を
建てたりしたが、大きな山は静かにその暴挙に耐えていた。
 彼もまたその大きな山に対し、多大なる尊敬の念を抱いていた。
 いつかはその山の頂きまで飛び上がり、かつては巨大な火柱を上
げた、山の頂上の大きな穴の上を、ゆったりと飛び回ることをいつ
も夢見ていたのだ。
 鳥の世界でもっとも偉大だと伝えられている鷲は、その大きな山
と同じくらいの高さに飛び上がれると、いつか父が言っていたこと
を彼は思い出していた。
「しかし我々トンビの仲間では、その高さに舞い上がったものは、
 残念ながら誰も居ないのだ・・・」
 年老いた父が、期待と不安に入り混じった表情を浮かべて、彼に
そう告げたのが思い出された。
 いったい自分はどれほどの高さまで飛ぶことができるのだろう?
 幼い頃から高く、そして早く飛ぶことは誰にも負けなかった。た
った一度だけ、カラスに不意を付かれて後方から攻撃を受け、左の
翼に怪我を負った時に、幼馴染のトンビに負かされたことがある。
が、怪我が完治した途端にまた負かしてやった。
 だが鷲が飛翔する姿は一度も見たことがない。
 幼い頃にたった一度だけ、鳥の世界で鷲の次に偉大だと伝えられ
ているオオタカが、湖の西に連なる十二の山の峰の遥か空高くを、
夕陽に吸い込まれるように飛び去る姿を目にしたことがある。
 その姿は神々しく、とても雄雄しく幼い彼の目に焼きついた。
 トンビは鳥の世界で何番目に偉大とされているのだろう?
 いつも繰り返される疑問を自分にぶつけてみた。
 しかしすぐにその疑問は大空を吹く風の中に消えて行き、再び彼
は自分の世界を見下ろした。
 
 湖畔の道を、犬を連れて走る人間の姿が目に入った。
 彼らのことはよく知っている。
 この時間、夜が明けて間もないころ、いつも3匹の犬を連れて彼
らは走っている。その表情には苦痛が浮かび、夥しい汗が顔を濡ら
していたが、彼らはその不毛の行いを、毎朝欠かすことがなかった。
そして走り終える頃にはゆっくりと湖畔を歩きながら、さきほどの
苦痛の顔とは打って変わって、喜びに溢れる笑顔を浮かべ、彼ら自
身の住処に帰っていくのだ。
 その人間たちの愚かな行いは、まったく理解できないことだった。
何故なら、自分たちが己の力の限りを尽くすのは、基本的に捕食す
る時か、外敵から逃れる時しかなかったからだ。
 しかし彼らの毎朝の行いは、そのどちらでもなかった。
 だが彼はその人間のひとつの秘密を知っていた。
 それはその人間の男もまた、カラスと鳩に大きな嫌悪感を持って
いることだった。しかしその人間が、すべての鳥を憎悪していない
ことは、彼の腕に彫られている鷲の刺青で、よく理解することがで
きた。
 
 今この大空に、鷲の姿もオオタカの姿も見えなかった。
 彼はこの湖と山々を見下ろす空の王者であり、完璧なる支配者で
あった。
「ピー! ヒュルル!」
 上空に向かって宙返りし、喜びの雄叫びを上げながら、いつもの
場所へとゆっくりと飛び去って行った。
 
 その日は朝から虹鱒の影を捉えることができなかった。
 どうしたと云うのだ?
 厳寒の冬でさえ、凍てつく湖で獲物を確保してきたはずだ。
 それなのに今日は・・・すでに太陽が西の空に沈みかけており、
湖も静寂の時を迎えようとしていた。
 ふと山に目をやると、いつものケヤキと胡桃の木の傍で、野ねず
みが走り回る姿が見えた。
 彼は迷った。
 仲間の中には野ねずみを捕らえて食べるトンビも居る。しかし気
高い誇りを持つ彼の父はいつもこう言っていたのだった。
「我々トンビの仲間は世界中のいろいろなところに住んでいる。中
には北オーストラリアのアポリジニーたちの暮らす、荒れ果てて乾
いたブッシュに住むトンビたちもいる。しかし我々は豊かな恵みが
得られる湖を住処としている。湖畔に暮らす以上、湖から得ること
のできる神の恵みを、なによりも尊ばなければならない」
 しかし空腹感が、彼の判断を鈍らせ、父親譲りの気高さをほんの
一瞬だけ忘れさせた。
 彼は野ねずみに向かって、まっすぐ降下を始めた。
 
 最初は簡単にケリがつくものだと思った。
 しかし野ねずみの動きは意外に素早く、間一髪のところで鋭いつ
ま先をかわし、藪の中へと逃げ込んだ。
 彼は一度中空に舞い上がると、再び逃げ惑う野ねずみの姿をしっ
かりと捉え、もう一度、鋭い爪を食い込ませようとした。
 今度は巧く行った!
 野ねずみの柔らかい薄茶色の背中に爪が食い込み、しっかりと掴
んだ感触を味わった。
 彼はそこから一気に飛び上がろうとした。が、己の不覚を瞬時に
悟った。
 そこは母が生きている時から、ずっと自分に警告を与えていた場
所だったのだ。
「人間たちはこの山が崩れることを非常に恐れている。それは何年
 も前に、隣の湖で大きな山崩れが起こり、大勢の人間が死んだか
 ら。だから人間達は山の斜面に、愚かにも鉄でできた網を被せて
 いる。そんな鉄の網など、山の神の怒りに触れたらひとたまりも
 ないのだけれど、多くの鳥の仲間がそこに引っ掛かって動けなく
 なった。だからあそこには近づかないように・・・」
 母の柔和な表情が脳裏を掠めた。
 泣き出しそうな気持ちになった。だが、熱いモノをなんとか飲み
込み、周りを見回した。
 野ねずみは息も絶え絶えになりながら、悲しい瞳をこちらに向け
ていたが、自分をそのような状態に陥れた相手が、同様の苦境に陥
っている様子を知り、その悲しい瞳の中に、僅かながら残酷な喜び
を浮かべた。
 殺される者と、その状況を自ら作り出して死に直面する者。
 また母の別の言葉を思い出していた。
「愚かな人間たちは、この金網と同様に、自分たち自身も死に追い
 やる道具をたくさん作っている」と。
 その言葉の意味と、人間たちの「自分たちも死に追いやる道具」
がなんなのか、それは彼には理解できなかったが、その母の言葉が
頭の中で響いた。
 今はここから一刻も早く逃げ出さなければならない。
 だが、もがいて羽ばたけば羽ばたくほど、鉄の網と山の斜面の狭
い隙間に挟まって行った。
 鋭い痛みが走って、以前カラスにやられて痛めた左の翼が折れた
のを感じた。いつも大空を飛び回ることが可能な無限の力を秘めた
翼が、こんなにも簡単に折れることが、彼には意外な思いだった。
 
 湖畔の道を誰かが通り過ぎようとしていた。
 それは例の、毎朝、犬を連れて走っている人間の男で、なにか奇
妙な乗り物に乗っていた。
 一瞬、助けを求めようとした。が、この忌々しい金網を作りあげ
たのは、他でもない、彼ら人間ではないか・・・そんな奴らに助け
を乞うことができるのか? そしてそれよりもなにも、彼は人間の
言葉を話すことなんてできなかった。
 
 夕闇が迫っていた。
 それは彼に、確実に死を宣告していた。
 
 太陽が沈んでしまって、どれくらいの時間が経過したのだろう?
 周りはすでに真っ暗で、彼には、ほとんどなにも見ることができ
なかった。一瞬、二つの目がキラッと輝くのが目に入り、首のあた
りに大きな衝撃と激痛が走り、その後はなにも感じなくなった。
 
 彼は大空を羽ばたいていた。
 眼下にはあの、頂きに雪を載せた大きな山が見えていた。
 山の麓にはかつて彼が支配していた、宝石のような湖が藍色に輝
き、そこでは今日も様々な動物たちが元気に走り回っていた。
 彼の心の中にほんの少しだけ、懐かしさの入り混じった哀しみが
こみ上げた。
 だがそれもすぐに消え去り、彼は遥かなる天空に向かって、力強
く飛翔して行った。

 
<- 完 ->
 
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