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2010年4月26日アーカイブ

鬼が笑う

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 これまで、いろいろなレースにチャレンジしてきた。で、そのレースの内容が厳しければ厳しほど、決まったように直後に人は尋ねる。
 「来年、もう一回やりたいか?」
 ボクの答えはいつも「NO」だ。
 終わった直後、精根尽き果て、少しでも早くからだを休ませたいと思う。
 昨日の「チャレンジ富士五湖」の後も、やはりすべての体力、気力を使い果たし、来年のレースはおろか、日々、走ることさえ無理だと感じるほど、疲労困憊しきっていた。
 それでもボクが出場したのはビギナークラスの72キロである。この他にも100キロ、112キロのクラスがあり、多くのランナー(ちなみに今年の参加選手は2500名ほど)たちが早朝から夕刻まで、自己への限界にチャレンジしていた。
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 これまでにもアドベンチャー・レースなどで、200キロ、300キロという距離は経験がある。が、そのどれもが走るのみではなく、様々な競技の複合であったし、 日数もそれなりにかけていた。一日で72キロもの距離を走るのはこれが初めて、まさに「チャレンジ」だったのだ。
 それでも42キロまでは、予定通りの展開だった。1キロ6分20秒くらいを刻み続け、42キロ時点でのタイムは4時間半。ここのエイドステーションでたっぷりと栄養補給をして、残りの30キロを1キロ7分から7分半で走りきろうと考えていた。が、これまでにフルマラソンは十数回走っているが、それ以上の距離は未知数である。
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 42キロでたっぷりと休養、補給をしたせいか、最初はこのまま1キロ6分台をキープできのではないか、と思えるほど調子が良かった。だが50キロあたりになると心拍数が上がる割にはスピードが出ない。55キロを過ぎるあたりに大きな下り坂があり、そこを慎重に歩くようなスピードで降りたが、そこで足が攣ってしまった。こうなるともうどうにもならない。その先、60キロ地点で妻や友人が待っていて、最後の12キロを一緒に走ってくれる約束だったが、そこまでは歩くことと走ることを交互に繰り返し、妻たちと会った時にはほとんど歩いていた。
 マラソンを始めた当時、今から25年ほど前のことになるが、ハーフマラソンに出場して、折り返しで同じように足が攣り、残りの10キロを歩いた経験がある。15年ほど前に出場した静岡県の掛川マラソンでも30キロ地点で足が攣り、残りの12キロをだまし騙し歩いて完走した。心肺機能にはなんの問題もない。体力もまだ残っている。が、走ろうとすると足の筋肉のあちこちが一斉に悲鳴を上げる。
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 当初の予定より1時間ほど遅れて、電光掲示板が示すように9時間24分でなんとかゴールしたが、惨憺たるレース展開となったのである。
 もちろん昨日は二度と、このようなレースには出ない...と思った。が、一晩眠り、レースの内容を細かく振り返る。
 <今回は塩飴を持っていなかったので、ミネラルの補給がまずかったのかな...水分をもっと多く摂るべきだったな...エイドステーションでもう少し休めば良かったかな...前半のスピードをもう少し抑えるべきだったのかな...>
 反省材料が次々と頭の中を過ぎる。
 <それらをひとつひとつ、今後の練習で検証していかなければ>
 課題を検証して、その結果を見出さなえればならない。
 「来年、もう一回やりたいか?」
 答えは「YES」である。
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    木村東吉
    1958 年大阪生まれ。
    20代は雑誌「ポパイ」の顔としてファッションモデルとして活躍したが、その後、30 代に入りアウトドア関連の著作を多数執筆。
    現在は河口湖に拠点を置き、執筆、取材、キャンプ教室の指導、講演など、幅広く活動している。
    また各企業の広告などにも数多く出演しており、そのアドバイザーも務めている。

    詳しいプロフィールはこちら

    木村東吉公式サイト「グレートアウトドア」

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