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2014年3月アーカイブ

遙かなる赤銅渓谷 ファイナル

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 海外のレースに出場すると、いろいろな国からやって来た選手や関係者と友だちになる。90年、91年と2年連続してミネソタの「ボーダー・トゥ・ボーダー」というレースに出場した時には、やはり2年連続出場していたオハイオから来たチームと、シカゴから来たチームのメンバーと仲良くなった。

 92年のレイドゴロワーズではアメリカチームのリーダー、マーク・バーネットと仲良くなり、レース後、オマーンからエジプトに向かう機内で、いろいろなことを話合った。その後、彼が住むロスでも2度ほど会ったが、彼があんなにも有名人になるとは、その時はまったく想像できなかった。

 今回でも多くの人と交流が出来た。

 オーストラリアからやって来たテレンス、イタリア系オーストラリア人夫婦、ルカとリディア。今回のレースの後、フェニックス経由でセドナとグランドキャニオンに行くことを予定しているが、テレンスとルカ、それにリディアの3人も日程の多少のずれこそあれ、ほぼ同じコースの旅をするのだとか。パットもお気に入りの野球チームのキャンプを見学の為に、フェニックスに行くと言っていた。


         手前から「二重人格」、ジム、リディア、ルカ、テレンス

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 あーそう言えば、コロラドから来た二人組、ジムと二重人格に付いて、何故、そのアダ名を付けたか、話していなかった。

 なにしろこの二人は変わり者で、単独行動することが多い。それに二重人格は酒を呑まないシラフの時には無口でほとんど会話することがないのだが、ビールを一口飲んだ途端に雄弁になり、果ては叫び始める。それで二重人格というアダ名が付いた訳だが、ディエゴにもうひとつ、別のアダ名が付けられていた。それは「フロッグ」。ビールを呑んで、ゲップばかりしていたかららしい。笑える。

 メキシコからの帰路、エルパソまでのバスが一緒だった、サンディエゴからやって来たロブとも仲良くなった。ロブはディエゴとは古くからの友人で、今回もレースの取材の傍ら(本業はカメラマン兼ツアーガイドとか)、ディエゴの即席レストランを手伝っていた。英語とスペイン語の両方に堪能なので、今回みたいな旅では重宝されているらしい。

 そのロブにボクは質門した。

 「レースの最中にアニモとかバモスとか、ミンナが叫ぶ意味はよく分かったけど、時々、ヤメロ! と声を掛けてくる人が居たんだけど、あれはどういう意味なの?」

 「ヤメロは、もうすぐ、という意味だよ。もうすぐゴールとか、もうすぐ次のチェックポイントだとか」

 「はあ・・・なるほど」とボクは頷いた。そして苦笑しながらロブに教えた。

 「実は日本語でヤメロと言えば、ストップという意味だよ」

  ロブが目を見開いて「Interesting!」と言って、すぐにメモを取った。

       サンディエゴから来たロブはナイスガイ。米滞在中に滞在先のホテルにギフトを贈ってくれた

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 アメリカ国境まであと30分くらいのところで、バンのマフラーが落下して、すぐ近くにあった牧場の柵の有刺鉄線で応急処置。アメリカのイミグレーションでは全員のパスポートをチェックされた挙句、バンのルーフに積んである荷物を降ろしてバッグの中身を些細に調べられる始末。そりゃそうだよな~...いろいろな国籍の人間が乗っているんだもん。それに皆、決して上品な格好とは言えないし・・・

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 それでもなんとか無事に国境を超えて、エルパソ空港の近くのレストランで最後の晩餐を取ろうということになった。

 ユカはそのまま日本に帰り、弘樹はメキシコシティで高地トレーニングの後、カリフォルニアのベンチュラで開催される100キロのレースに出場する。ボクとカホはアリゾナを巡り、オーストラリアから来た3人もアリゾナだ。コロラド二人組はニューメキシコ経由でコロラドに戻り、ロブはサンディエゴに帰る。

 食べて、飲んで、語って、笑って、ハグして、それぞれが次の目的地へと向かう。10日前に、ユカとカホとの3人でこのエルパソの夜の空港に降り立ち、些か、心もとない寂しさを感じたが、今はその時にはまったく知らなかった友たちとの別れによって、もっと大きな寂しさを感じている。

 旅は続く。新たなチャレンジも続く。それは生きている限り。いやその為に生きているのだ。





遙かなる赤銅渓谷9

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 これまで29年間のレース出場経験の中で、足が攣って走れなくなったことが3度ある。

 まずはロードレースに出場し始めた25歳の頃、多摩川を走る20キロのレースの途中、折り返しを過ぎて11キロ地点で足が攣った。1月の寒い日のレースで、残りの約9キロをずっと歩いた。歩くのは辛くなかったが、寒さがホントに堪えた。

 二回目は静岡県の掛川で開催されたフルマラソンで、30キロまではとても好調で、このまま行けば新記録が出るかもしれないと調子に乗って飛ばしていたら、32キロ地点で足が攣った。残りの10キロをなんとか早足で歩いたが、この時は気温も暖かく、ただ単に自分の不甲斐なさを呪った。

 三回目は初めて「チャレンジ富士五湖」の72キロの部に挑戦した時だ。この時も最初は好調だった。本栖湖の約40キロの折り返し地点で4時間半。いつものフルマラソンの記録を鑑みれば、極めて好調なタイムだった。が、それが良くないことが、後から分かった。もう少しスローペースで走ればよかったのだ。60キロ、ちょうど自宅前を通過した辺りで足が攣った。この時も残りの12キロを早足で歩いたが、やはり悔しさが残った。

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 レース以外でも、長い山の縦走などに行くと、時々、足が攣る。それは歩いている時であったり、歩き終え、夕食の準備をしている時もある。どうやら足が攣ることが癖になっているみたいだ。

 理由は二つ考えられる。

 一つ目は電解質のバランスだ。ボクは汗かきである。呆れるほど汗をかく。当然、水分も大量に摂取する。その結果、電解質のバランスが崩れる。2つ目はストレッチ。若い時から苦手だ。朝起きていきなり走り始める。周囲が見ていて苦笑するほど、いきなり走り始める。そして走った後もストレッチをしない。若い時なら誤魔化せたかもしれないが、歳も歳である。もう誤魔化せないのは分かっている。

 もちろん前日の食事等も影響するだろう。今回みたいに僻地に来て、普段、レース前に口にするようなモノが、ひとつも口に出来なかったということも影響しているかもしれない。

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 今回はなにしろ早かった。ノースループのチェックポイント2を過ぎた辺り、距離にして25キロほどの地点で足が攣った。が、日本を出る時に攣りに効く漢方薬を処方してもらい、それを飲んだら、攣りはどこかに消えてそのまま走り続けた。

 サウスループの50キロの地点で少し違和感はあったが、そのまま走り続けた。サウスループからスタート地点に戻る箇所では弘樹から「もう少しスピードを落として!」と注意されるくらいに走ることが出来た。

 スタート地点の60キロ地点では、先回りした弘樹が椅子を二脚用意してくれ、「トウキチさん、カホさん、ここに座って!」と言って椅子を勧めてくれ、コーラなどの冷たい飲物、ブドウやバナナなどを準備してくれた。

 その時すでにゴールしていたパットが近づいて来て「最高のコーチだな!」とボクの肩を叩いた。まったくだ。「エル・ドラゴン」にここまでイタレリツクセリでは申し訳ない。

 残り20キロ。最初のチェックポイントまで行って帰ってきたらレースは終わりだ。

 ところが...ウリケの村外れ、約63キロの地点で再び足が攣る。ハムストリングからフクラハギに掛けて、もう一歩も歩けないほど。弘樹が念入りにマッサージしてれる。それから「トウキチさんはあまり好きじゃないと思うけど」と言って、持っていたパワージェルを飲ませてくれた。

 ボクは極力、サプリメントを摂取しないことにしている。それは普段の生活でもレース中でも同様だ。その訳はいつかまた違う機会に話したいと思うが、それまでの10時間は水とエイドに置いてあるオレンジやグレープフルーツ、それにスポーツドリンクだけで済ませて来た。だが弘樹が見かねてパワージェルを差し出した。

 マッサージが効いたのかジェルが効いたのか、攣りは少しは収まり、なんとか小走りに走れるようになった。それに心配していた膝の痛みがほとんどないことに驚いた。

 その時、それまで後方を僅かに遅れて走っていたユカが我々に追い付いた。ほんの少し、彼女は我々と共に居たが、弘樹に「ユカさん、さあ行って、行って!」と檄を飛ばされ、先を急いだ。

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 ユカが先に行って暫くすると、今度は左足のワラーチの鼻緒が切れた。実はこれで今日は二回目だ。朝、ノースループの20キロにも充たない地点で右足の鼻緒が切れたのだ。

 カホに手伝って貰って、朝と同様に即席で補修する。予備の細挽き紐は持っているが、なんとか今使っている真田紐で補修できるみたいだ。

 ワラーチを作り始めた頃、3ミリの細挽き紐を使っていた。その頃には100キロから150キロ走ると、良く鼻緒が切れた。それから細挽き紐から真田紐に変え、さらにシュードクターで補強するようになって、走っている時に鼻緒が切れることなんてなかった。このコッパーキャニオンの路面が厳しいのか。それとも他の理由が考えられるのか。が、レース後半になってくると、地元のララムリの人々の鼻緒も切れ、そこかしこでワラーチを補修しているララムリの選手を見かけた。これはもうどうすることも出来ないのだ。

 ワラーチの補修が終わって再び走り始める。

 「辛いって言ったって、レースはたった一日で終わるじゃないですか! レイドで12日間も歩き続けたことを考えれば、比にならないくらいにラクじゃないですか!」と弘樹が慰めの言葉を掛けてくる。さらに「泣いても笑っても、あと15キロ。二時間もしないうちにレースは終わります。このキャニオンの自然をたっぷりと味わって走って下さい!」

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 その言葉に促されて見上げると、渓谷の底には夕闇が近づいて来ているが、渓谷の頂上あたりには西日の残照が当たり、赤銅色にキラキラと岩肌を輝かせている。空の青さが濃くなり、その赤銅色とのコントラストが美しい。まさにコッパー・キャニオンである。

 弘樹の言う通りだ。こんな美しい夕暮れの渓谷の中を走る機会なんて、そんなにあるものではない。

 チェックポイント4の折返地点の近くで、再びユカとすれ違う。彼女も一人ぼっちで頑張っている。こっちも負けてはいられない。

 山から降りてきて、残り5キロの地点で、それまでダラダラと歩いていた二人のララムリの選手が、追い越しざまに再び走り始め、我々に負けじと付いて来た。

 弘樹がその様子を見て、「嬉しいじゃないですか! 彼らを引っ張ってあげましょう!」と言った。その言葉に益々チカラを得て、快調に走り続ける。時計を見るとキロ5分ほどで走っている。隣で走っているカホも、ララムリの選手も、まったくスピードを緩める気配もない。

 だがこの時、ココロのどこかで引っ掛かるモノがあった。しかしそれを考えるほどの余裕はない。なにしろ、ゴールはもうすぐに見えているのだ。

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 「バモス! バモス! アニモ! アニモ!」

 このレース中に何度も耳にした言葉を、沿道にいる人々が叫ぶ。

 「バモス!」は「行け!」という意味で、「アニモ」は「頑張れ!」という意味である。

 最後はララムリの二人とカホの4人でゴールした。

 ゴールした瞬間、カバーヨの奥様であるマリアさんからハグを受け、続いてパットから完走のメダルを掛けて貰う。そしてさらにパットの友人のテイラーから完走のベルトバックルを受け取る。

 一緒に旅を続けたテレンス、ルッカ、リディアの3人もゴールで待ち構えていた。

それぞれにハグを交わした。

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 振り返ってカホともハグを交わし、その横に立っていた弘樹ともハグを交わした。その瞬間になって、ココロに引っ掛っていたことに気付いた。

 この12時間半にも及ぶ長いレースの間、ボクはカホと弘樹の3人でゴールする瞬間を何度も何度も頭の中で思い描いていたのだ。ところがゴール寸前で追い付いてきたララムリの選手たちとのランによって、ずっと思い描いていたイメージは別のイメージに置き換えられてしまったのだ。

 その原因のすべての責任は、自分のココロの余裕のなさである。その証拠に、弘樹にこれだけの量の写真を撮ってもらいながら、彼のことを少しも撮影してあげられなかった。もっとココロに余裕があれば、弘樹に一言「最後は一緒にゴールしよう!」と声を掛けられたはずである。

 またひとつ旅の果てに、己の魂の一部を置いて行くことになった。

 これにもいつかは決着を付けなければならないだろう。

 2010年にワラーチに出会い、その後、自家製のワラーチ作りに心血を注ぎ、2011年にはその自家製ワラーチでフルマラソンを走った。そして2012年にはワラーチで18日間掛けて河口湖から神戸まで走り、今回はワラーチの故郷で80キロの距離を走った。

 これでひとつの区切りは出来たのだと思う。

 見上げると、ペーパームーンが渓谷の夜空に輝いていた。

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遙かなる赤銅渓谷8

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 レース前日の土曜日の朝、子どもたちだけのレースが開催された。スタートは明日の本番と同じくウリケの村の広場だが、距離は2マイルで約3キロ。距離が短いこともあるが、皆、スタートから猛ダッシュである。靴を履いている子ども、ワラーチの子ども、普通のサンダルの子ども、裸足の子ども...皆、必死に走っている。景品の玩具やお菓子が目当てなのか、それとも子どもなりに名誉を掛けているのか、あるいはもっと他の動機があるのか、それはまったく判らないが、とにかく皆、必死で走っている。あとから写真をPCに落として見たら、走っているというより「飛んでいる」子どももいる。

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 まったく関係ないが、我が河口湖の地元の方言で、走ることを「飛ぶ」という。おそらく甲州弁でそのように表現すると思われるが、最初はなんのことか解らなくて、カホの自宅に電話した時に「今、トビに行ってるよ!」と言われ、「????」だらけで受話器を置いた記憶があるが、ここの子どもたちはホントの意味で「飛んで」いる。それにストライドも広い!

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 あっと言う間に子どもたちのレースが終わる。そしたらその様子を取材していた、エルパソから来たというテレビクルーが「エル・ドランゴン」に取材を求めて来た。その取材で弘樹が明日、ボクのペーサーを務めると言ったので、次はボクも取材を受けることになる。まあどっちみち使われないだろうが、調子に乗って自作のワラーチの自慢までしてしまった。ちなみにボクが取材を受けている後方、写真右側にピンクのシャツを着て映っているのが、アノ! 伝説のアルヌルフォである。

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 広場にはお土産などを売るいろいろなお店が出ており、本家本物のワラーチも売られていたが、とてもじゃないけど履いて走る気にはなれない代物で、残念ながら購入は諦めた。(手持ちのペソが底を尽きかけていたということもあるが)

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 夕方、早めに宿に帰って、弘樹とレース当日のペースなどの打ち合わせをした。

 「どうですか? 膝の具合は...」と弘樹は心配そうに訊ねる。

 実は昨年の6月に突然、膝に水が溜まるという症状が出だした。ある日突然だ。で、病院に行ってその溜まった水を抜いて貰ったが、一週間ほど経つとまた溜まる。しかも一回に50CCくらいの水が抜ける。幸い、黄色い透明の水で(濁っていたり、血が混ざっていると良くないらしい)、抜くとラクになるが、溜まると正座さえもできない状態になる。もちろん走ることも出来ずに、約4ヶ月間、ほとんど走ることが出来なかった。

 理由? まったく判らない。

 ワラーチ反対派から言わせれば、ワラーチの責任にされるし、ワラーチ賛成派から言わせれば、不安材料になるので、極力、誰にも言わないようにした。

 MRIも撮ったし、CTスキャン、レントゲンも撮った。血液検査までした。が、理由はまったく判らない。不思議と10月になると水が溜まらなくなり、10月末に開催された諏訪湖ハーフマラソンは、それなりに走ることが出来た。もちろん4ヶ月のブランクの後なので、タイムは酷いモノだったが、それでも走ることが出来た。そこから少しずつ距離を伸ばしていていき、年末年始にはロングを走ったが、練習不足は否めない。しかも未だに正座もできずに、ハードな練習をすると必ず膝が痛む。

 「そんなに悪くはない」と応えると、弘樹は顔をシカメて言った。

 「難しいところなんですよね・・・レースに出る限りはベストを尽くして欲しい。だけどレースはこれが最後じゃない。また来年だって開催される。だから無理してベストを尽くすことで、今後、走れなくなるのもナンセンスだと思う」

 まったく弘樹の言うとおりである。レースの為に走るのではない。自分自身の人生を豊かにする為に走るのだ。一回のレースの為に、走れなくなるのはホントに馬鹿らしい。

 「弘樹も良く知っていると思うが...」とボクは言った。

 「若い時にはいろいろなレースに出たもんだよ。こう言った海外のレースもね。特に想い出深いのは92年のレイドゴロワーズだ」

 弘樹がそれを聞いて言った。

 「もちろん知ってます。それはボクにとって原点ですからね」

 ボクは続けた。

 「しかしだ。これも言ったかもしれないが、93年にパタゴニアのイボンと会った時に、レイドに出場したと言ったら、ただ一言、bullshit! と言われた」

 そこで互いに苦笑いした。

 「初日に馬の下敷きになって、足の指を骨折して、そこから食うや食わずに12日間も続けたレースに参加して、一言、bullshitだ」

 それまでベッドに半分寝転びながら話していたが、ボクは座りなおして弘樹を見つめた。

 「それから自分自身でも思うこともあり、こういうレースからは遠ざかっていた。が、今回のレースだけは避けては通れない。それに22年ぶりの海外でのレースだ。例えレースが終わって、半年やそこら、走れなくなっても必ずゴールを目指す。いやゴールじゃなくてもいい。走れる限りは走り続ける」

 しばらく二人とも黙っていた。が、弘樹が静かに言った。

 「分かりました。最後まで頑張りましょう」





遙かなる赤銅渓谷7

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 レース前々日の金曜日。今日も朝からコース下見があった。今日はノースループの下見だったが、弘樹が「もうレース二日前だし、ゆっくりと休んだほうがいい」とアドバイスしてくれたので、宿でのんびりと過ごすことに。

 部屋の外に椅子を出して本を読んでいると、今回、我々に宿を提供してくれた民家の主の孫娘の女の子が、庭に置かれた重機の陰から、こちらの様子を諜っている。拙いスペイン語で呼び掛けると、ニコニコしながら重機の陰から顔を見せたり隠したりする。

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 お土産に持って来た玩具類はすべてセロカウイの寄宿舎に置いて来たし、なにかないかなあ・・・と考えあぐねた結果、旅の予定表を印刷したA4用紙の不必要なページで紙飛行機を作ることにした。

 で、最初はボク一人で紙飛行機を飛ばしていたが、そのうちに少女が仲間入りした。少女の名前はエマちゃんで5歳だとか。寄宿舎に於いてもそうだったが、この辺りの子どもたちは、シャボン玉やゴム風船、折り紙といった単純な玩具でいつまでも遊ぶ。我々が幼いころも、そういう玩具しかなかったが、現代日本人の子どもたちが持つ玩具は、もっと複雑で高価だ。

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 単純=工夫する、複雑=マニュアル通り。

 これは玩具に限らず、人が接する道具のすべてに当て嵌る方程式だと思うが、この地に居ると、いろいろなことが懐かしく感じられる。

 単純な玩具、整備されていない原っぱ、包装されていない食べ物、痩せた野良犬、純真な子どもたち、自由に闊歩する鶏、そして青い空と白い雲。

 おそらくエマちゃんにとっては日本人はおろか、アジア人でさえ初めて接する機会だったかもしれない。

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 夕食は、この一週間だけ開店するディエゴのレストランに行った。(どれだけ働くんだよ!)そこで食事をしていると、現地人のような男がカホの横に座った。食事もしなければ飲物を呑む風でもない。ただじっと座っている。

 20分ほど経過しただろうか。彼の正面に座っていた弘樹が目を丸くして叫んだ。

 「ミゲル・ララか?」

 彼は微かに微笑んで頷く。そしてぼそっと呟いた。

 「エル・ドラゴン...」

 弘樹がその場に居た皆に説明する。

 「彼は昨年と一昨年、2年連続優勝したミゲル・ララで、今年の優勝候補の一人です」

 そして立ち上がってミゲルと握手をした。

 これがアメリカから来た有名な選手だったら、きっとレストランに入った来た途端に弘樹を認め、「元気か!」と叫びながらハグするに違いなだろう。ところがこのララムリの青年は、自分自身のことを弘樹が気付くまで、じっと黙って座っていたのだ。これがララムリの人々のある種の本質であり、現代に於いても彼らが山の奥深くにひっそりと暮らしている所以だと思われる。

    

     右から3人目がミゲル・ララ。弘樹を挟んで右端がマネージャーらしいが、悪いけど、なんだか怪しい。

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 エマちゃん、ミゲル・ララ、そしてこの地に暮らす人々は、現代の日本人がどこかに忘れてしまった「何か」を、未だにずっと大切に持ち続けている。仮に物質的に恵まれていなくても、それらはずっと人間らしい控えめな優しさを含んでいるのだ。





遙かなる赤銅渓谷6

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 ウリケの村に入った翌朝、早朝からコースの一部を下見に行くことになった。

 今回のコースはウリケの村がスタート&ゴールとなり、まずは北上してチェックポイント1を目指す。そしてそのままチェックポイント2を目指し、合計約30キロの距離を走ってスタート地点に戻る。そこから南下してチェックポイント3を目指し、再びスタート地点に戻る。ここまでで約60キロ。そして最初のチェックポイント(1と4)に向かって北上して、ゴールに戻って来るというコースになっている。

 で、今日はサウスループ、つまりチェックポイント3の下見である。

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 写真のようにトラックの荷台に乗り込み(日本では決して許可が出ないだろう)、クルマで行けるところまで荷台に乗り、その後、山間部を歩いて行こうという下見である。

 山間部の入り口には一人がようやく渡れるような吊り橋が掛かっており、そこを一列に並んで渡って山に入っていく。標高差は500メートルほどか。チェックポイント3に到着すると、グレープフルーツとピノーレ(トウモロコシで作ったジュース)が配られた。

 そこで弘樹にパトリック・スウィニーを紹介される。

 パトリックはルナ・サンダルと契約しているランナーで、ボクも以前から彼の活動には興味を持っていた。レースに出場する時にはワラーチにスパッツ。どんな寒い日でも毛むくじゃらの上半身は裸というスタイルだ。そして大量のアボカドで(週に25個ほど食べるらしい)いろいろな料理を自作する。さらには掛かった費用まで披露している。

 パトリックはボクの作った自家製のワラーチに興味を持ち、ちょっと見せてくれないか、と。で、細かくチェックした後「ソフトで軽いな!」との感想。

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 グレープフルーツを食べた後は、カバーヨブランコの奥様であるマリアさんによって、一昨年に亡くなったカバーヨの記念碑設立セレモニーが開催された。

 チェックポイント3の帰り道。ちょっと本気でトレイルを走る。行きは混雑していてまったく走れなかったが、帰りはいいリズムで走ることができる。ワラーチの感触、路面、滑り具合、ガレ具合などをチェックする。やはり日本の山々と比較して、乾燥していて、岩などもゴツゴツと剥きだしているが、コース自体は走りやすい。少なくとも日本の泥質な路面よりはマシだ。

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 かなり本気で走って汗をかいたので、ゴールの吊り橋では冷たい川に顔をツッコミ、汗を洗い流していたら大きな歓声が聞こえた。見上げると、他の選手たちが大きな岩から川に飛び込んで大はしゃぎしていた。

 いやあ・・・みんな愉しんでいるわ!

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遙かなる赤銅渓谷5

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 結局、ディエゴの宿に二泊し、いよいよウリケの村に向かう。セロカウイからウリケまでは僅か30キロほどの距離だが、曲がりくねった峠を登り降りする。

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 今回、ウリケでの宿は決まっておらず、村外れのキャンプ場のコテージを利用するはずだったが、最終的にディエゴが民家の庭先に建つ「離れ」を確保してくれ、我々はレースが終わるまで、そこに宿泊することになった。今回のレースはララムリの人々が約250人、メキシコ国内からはやはり250人、そして外国からもやはり250人ほどの選手が参加する。小さなウリケの村に、それだけの人々を収容する施設などあるわけもなく(もっともララムリの人々はほとんど野宿だが)、最初から宿の確保に困っていたのだ。

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  ウリケの村の中心にある広場ではレースの開催を告げる絵が壁に描かれ、道端の脇の低い壁にはワラーチの足跡が描かれている。この一週間、この村はまったく別の村になる。レストランでの食事、マーケットでの買い物、すべての価格が変わり、交わされる言語や、人々の暮らしも変わる。

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 一年に一回、レースの為だけにこれだけの人々が集まり(しかも年々参加者が増えている)、その後、地元の人々の暮らしに影響は出ないのだろうか。アウトドア・ライフでの基本ひとつに「自分の足跡以外はそこになにも残すな」という言葉があるが、我々は旅人として、そこに暮らす人々に、どのような影響を与えるのだろうか。

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 毎食のようにトルティーヤがテーブルに並び、その味に飽きて残すことが当たり前のようになった時、一人のララムリの少年が、我々が残したトルティーヤを美味しそうに頬張るのを見て、胸の奥底が小さく疼く。だが訪れた土地に於ける過度の感情移入は危険だ。我々はそこを訪れ、そしてすぐに去っていく。なにかを感じても、なにも出来ないのだ。旅の想いを自分のココロに深く刻んでも、そこに己の存在を深く刻むべきではないのだ。それが異邦人としての暗黙のルールである。

 そしてそこで味わった、少しの疼きや痛みを自分自身の人生に昇華させてこそ、そこに真の旅の意味があるのだ。

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遙かなる赤銅渓谷4

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 セロカウイの村外れに建つディエゴの宿で宿泊した翌朝、弘樹の提案で宿を見下ろすように林立する岩峰に登ろうということになった。こちらに来てからも、毎朝、ランを欠かさないようにしているが、たまにはこういうトレーニングも楽しい。

 さっそく我々は登り始めた。ところが弘樹の記憶も曖昧で、しかも牛が勝手にどこかに行かないように、至る所に鉄条網が張り巡らしてあり、なかなか岩峰の頂上に辿り着かない。1時間ほど過ぎて、諦めて下山しかけた時、ようやく頂上までの道が見付かった。それがこの眺め。我々の宿泊しているコテージが真下に見える。

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 で、これが降りてきてからの眺め。

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 ちなみにディエゴが経営する宿の名前は「Hotel Paraiso del Oso」で、「Oso」というのはスペイン語で「熊」という意味。この写真に映っている岩峰の右側を良く見て欲しい。熊が右側を向いて立っているように見える。こういう名前を冠するところが、なんとも洒落ているではないか。

 コテージの各部屋には薪ストーブがあり、柔らかな暖かさに包まれ、久しぶりにのんびりと過ごす。

 今日の午後はセロカウイにあるララムリの子どもたちの寄宿学校を訪ねる予定だ。エルパソを出発する時、ディエゴは我々を「100均ショップ」に連れて行った。そこで「ほんのささやかな気持ちでいいから」と、この寄宿学校で暮らすララムリの子どもたちに、玩具を買ってやって欲しい、と告げた。今日はその玩具を持って子どもたちを訪ねるのだ。

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 ディエゴはララムリの人々、特に子どもたちの生活環境の向上に繋がる活動を続けており、今回の訪問もその一環である。このシリーズの冒頭で、ディエゴのことを「今回の旅のガイド兼運転手」と言ったが、それを務めるのは決してビジネスの為だけではなく、このような尊い活動の一環でもあるのだ。遠く日本からやって来て、ララムリの人々と共に走るレースに参加する。その日、一日、走る為だけにこの地にやって来たのなら、きっとこの旅は自分にとって、もっと薄っぺらなモノになっただろう。しかしこうやってディエゴの案内で、メキシコ、そこにある自然や食事、そしてララムリの人々の置かれている環境などを、じっくりと時間を掛けて体験していくと、そこにあるのは「ワラーチ」や「レース」だけではないことに気付く。

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 人生はいつも自分が予想していたことと、少し軌道を外しながら進んでいく。その軌道上に思いがけない出来事が起こり、またその軌道が角度を付けて違う方向に進んで行く。だからこそ人生は面白い。予定していた飛行機に乗り遅れた瞬間から、その旅は本当の意味を持ち始める。

 今まさに、その旅の真っ只中にいるのだ。

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遙かなる赤銅渓谷3

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 クアウテモックに宿泊した翌日、弘樹の案内で街のもっとも高台にある公園まで、みんなでランニングすることになった。砂漠の街の日中は暑いが、朝晩は結構冷える。それでも充分にワラーチで走ることのできる気温だ。

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 ランの後、シャワーを浴びて朝食を済ませ、また再び荷物をバンに積み込んで出発する。今日はウリケの村から約30キロほどの距離にある、ディエゴが経営する宿に宿泊する予定だ。


       イタリア系オーストラリア人夫婦のルッカとリディア。リディアは現在、妊娠6ヶ月

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 クアウテモックを出ると、道は未舗装の道路が続き、曲がりくねった渓谷の道が続く。

途中、通過した村の広場で、3人の若い男がパトカーのボンネットに手を付かされ、周囲では民兵や警察が20人ほど、マシンガンを構えている。拳銃ではなくマシンガンだ。なにがあったか判らないが、こんなにも恐ろしい警察を相手に、よくも犯罪など犯す気になれるものだ。

 途中、渓谷にある施設に立ち寄る。そしてディエゴが言った。

 「ジップラインをやってみるか!」

 ジップライン? あー知っているよ。昔々、フランスで「トロフィーボルヴィック」というアドベンチャーレースに出場した時、渓谷間を長いワイヤーにぶら下がって移動したことがる。

 しかし今回はレース前だぜ! オレたちゃ、遊びに来たわけじゃないんだぜ!

と言いつつ、結局、やることになった。

 こちらの映像をどうぞ。

 

 というこ とで、結構、愉しませて貰ったが、この施設のジップラインの長さはメキシコ一番だとか。まあ滅多に来ることはないところだ。何事も徹底的に愉しまなければ。ちなみに7本のジップラインと2本の長い吊り橋を渡って、料金は日本円で4800円だった。コロラドから来た二人組が「コロラドじゃあ、もっと短いジップラインが1万5千円もするぜ!」とぼやいていたとことろ見ると、ここはどうも格安のようである。

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 散々、遊んだせいで、ディエゴの宿に着いた時には夜の8時を過ぎていた。

 宿に入ると、暖炉で炎が赤く揺れており、ウェルカムドリンクのマルガリータが振る舞われた。マルガリータが並んだカウンターの横に、カバーヨ・ブランコの写真が飾られていた。生前、カバーヨはこの宿を頻繁に訪れ、ディエゴがビールを奢ることがよくあったそうだ。

 あゝ、とうとうやって来たんだなあ...

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遙かなる赤銅渓谷2

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  旅をする上で最優先させなければならないのは、言うまでもなく安全だ。かつて「安全と水はタダ」と言われた我が日本も、水は相変わらず無料で飲めるが、安全の方は怪しくなってきた。が、それでも深夜の地下鉄で、酒を呑んで眠ってしまっている女性などを見かけると、まだまだ日本は安全な国だと思う。

 今回の旅では陸路でメキシコ国境を超える予定だ。我々が宿泊している「モーテル6」から僅か15分ほど走れば、そこはもうメキシコ国境で、メキシコの中でも悪名高いシウダード・ファレスである。「シウダード」と云うのは英語の「シティ」に相当するので日本語に訳せば「フェレス市」ということになるのか。「ファレス」と云うのは、インディオとスペイン人の混血で、メキシコの初代大統領になったベニート・ファレスに因んで命名された都市である。以前は「戦争地帯を除くと世界で最も危険な都市」と恐れられていたが、2年前にホンジョラスのサンペドロ・スーラにその席を譲った。が、まだまだ充分に恐ろしい街であることには変わりない。

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 「国境を超えたらすぐにドルからペソに両替しよう。ファレスはレートがかなりいいから」とディエゴは言う。本音を言えば、レートなんてどうでもいいから、クルマから一歩も下りずにファレスを通過したかったが、とりあえず1ペソも持っていなかったので、換金屋に寄る。そして急いでクルマに戻った。

 恐ろしいファレスの町中を出ると、すぐに砂漠地帯が拡がる。エルパソの年間降雨日数は僅か1週間。周囲を見回してもハゲ山か砂漠しかない。国境から1時間ほど走って、本格的にメキシコのイルミグレーションで304ペソ(4ペソはいったいなんだ?)を払って入国スタンプを押してもらう。

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 そこからしばらくしてランチ。ディエゴお勧めの「ケサ・ディーア(トルティーヤに溶けたチーズを挟んだモノ)」。屋台で2枚で12ペソ。日本円にして100円ほど。これがなかなか旨い。

 ランチが終わればすぐに出発。今夜はチワワ市から西へ100キロほど向かった「クアウテモック」に宿泊の予定だ。

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 延々に続くかと思われる砂漠地帯を抜けて、18時頃にようやくクアウテモックに到着。ホテルチェックイン後、ようやく全員集合で夕食に行く。ディエゴ以外、レストランのメニューを見てもまったく理解できないが、楽しい夕食となった。

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遙かなる赤銅渓谷1

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 2月21日から3月15日まで、メキシコ、アメリカと二つの旅をした。

 メキシコはチワワ市近く、コッパーキャニオンで開催されたウルトラマラソンに参加する為に、アメリカはレースの後、アリゾナ州の各所を見て廻るための旅だった。

 大量の写真やビデオを撮影し、それをTwitterなどのSNSなどで紹介したが、それらSNSはリアルタイムで臨場感のある報告が可能な反面、すべてが垂れ流しで、その後の夥しい量の情報の山に埋もれてしまう。

 写真を少しづつ整理しながら、自分自身の為の備忘録として、今日から今回の旅を振り返って行きたいと思う。

 

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 今回の旅はテキサス州の南端、メキシコとの国境沿いの街であるエルパソから始まった。

 エルパソ...幼い頃から何度も耳にした名前。ロスアンジェルスやニューヨーク、それにサンフランシスコなどの大都市の名前は、日本人の誰もが知っていると思う。それ以外ではシカゴ、マイアミ、ぎりぎりでデンバーなどか。

 エルパソは今、挙げた街の名前とは規模に於いてもまったく違う街なのだが、その名前には妙に馴染みがある。

 何故か? おそらく西部劇映画の影響だと思われる。それと、もしかしてテキサスはステーキで有名なので、エルパソという名のステーキハウスかなにかが在ったのかもしれない。いずれにしても西部の街のイメージであるが、実際に空港に降り立ってみると、意外なことにそこはアーミーの街であった。エルパソにはアメリカ陸軍の大きな施設があり、空港などでは多くの兵士を見かける。


        右がディエゴ。元ニューメキシコの警察官だ。

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 エルパソの意味は「通り道」。元々は「エルパソ・デル・ノルテ」と呼ばれ、スペイン語で「北に続く通り道」という意味だったらしい。つまり完全にメキシコ側から見た呼称で、実質的に1848年まではメキシコの領土であった。今でもメキシコの移民が多く、街ではスペイン語と英語が半々の割合で使われている。

 エルパソ空港近くの「モーテル6」が今回の旅の集合場所だ。

 ボクはアシスタントのカホ、それと友人のユカと3人で21日の夜に、エルパソに入った。

 翌朝、エルパソの街を軽く10キロほど走り、モーテルに帰ってシャワーを浴びる。で、シャワーの後、前日、テイクアウトした夜食の残りモノである、ナマズのフライの朝食を済ませて部屋から出ると、大柄な男がクルマから出てきて「オハヨウゴザイマス!」と笑顔で声を掛けて来た。それからさらに「HIroki's friends?」と訊ねて来た。

 コッパーキャニオンで開催されるレースとは、「CCUM(コッパー・キャニオン・ウルトラ・マラソン)50マイル」で、今年で12回目を迎える。2009年に日本人として初めて参加して、いきなり優勝してしまったプロのトレイルランナー石川弘樹は「エル・ドランゴン」と呼ばれ、レースが開催させるウリケの村ではヒーローである。

 今回のレースではその石川弘樹が、レースでペーサーを引き受けてくれた。

 つまりボクが無事に80キロの距離を走ることができるように、一緒に走ってサポートをしてくれる、という訳である。

 「HIroki's friends?」と声を掛けて来た大男は、「石川弘樹の友だちか?」と訊ねて来た訳である。

 そうだ、と答えると「ディエゴだ!」と握手を求めて来た。そして「弘樹は今日の夕方の便でエルパソ到着だな。それまでにどこか行きたいところがあれば、クルマで乗せて行ってあげるよ」と言ってくれた。どうやらこのディエゴは、今回の旅のドライバー兼ガイドのようである。

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 その日の夕方、予定通り、弘樹が合流。さらにコロラドからやって来たジムと二重人格(申し訳ないが名前を忘れてしまった。二重人格と呼ぶ理由は後述する)が加わり、その日の夜は7人で夕食を共にした。

 翌朝、我々の宿舎である「モーテル6」に3人の男女がやって来た。イタリア系オーストラリア人の夫婦、ルカとリディア、それにオーストラリア人のテレンス。ディエゴを含む合計10人のメンバーが、どうやら今回の旅の仲間のようである。


 左側、日本を代表するトレイルランナー石川弘樹。「エル・ドランゴン」はヒーローである。

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    木村東吉
    1958 年大阪生まれ。
    20代は雑誌「ポパイ」の顔としてファッションモデルとして活躍したが、その後、30 代に入りアウトドア関連の著作を多数執筆。
    現在は河口湖に拠点を置き、執筆、取材、キャンプ教室の指導、講演など、幅広く活動している。
    また各企業の広告などにも数多く出演しており、そのアドバイザーも務めている。

    詳しいプロフィールはこちら

    木村東吉公式サイト「グレートアウトドア」

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